ハードボイルド・パン屋伝(前編)

小説-ブログテーマ:

「妥協はできない」

 

 俺はきっぱりとそう言い切った。目の前で青ざめているのは三年前にパン職人として弟子入りしてきた男である。

 

「だけど桐生師匠、これが限界です。今以上美味しくは作れません」

 

 震える手のひらには、ひとつのパン。

 

 店には『ききパン』と呼ばれる独自の制度がある。それは初めて店のパンを食べるお客さまに推奨しているものだ。利き酒ならぬ『ききパン』をしていただき、そこから自分にあった小麦やトッピングを見つけてもらうのである。

 

 男の手のひらにあるパンは『ききパン』をしたお客さまからの要望に応えた、世界でひとつだけのオーダーメイドのものなのだ。

 

 俺は思わず拳を握っていた。四〇年間、パンを作り続けたこの拳を。

 

「いいかよく聞け。うまいパンを作るのは当たり前。その上で俺たちは……お客さまにとって最高のパンを作るんだ!」

 

 男が作ったパンはたしかにうまかった、しかし、お客さまからいただいた細かな要望については平均的なラインでクリアしているだけだと感じたのだ。

 

 俺は使い慣れた腰巻きの紐を固く結び直す。

 

 これはパン職人の甲冑だ。

 

「世界中の小麦粉をここに集めろ、最高のオーダーメイドのパンは俺が作る」

(続く)

コメント